カノンカノン(第三版)

彼の視点・昼


 綺羅綺羅と目に喧しいのは、煌めく刃か、魔法の残滓か。咆哮に絶叫、怒号に悲鳴、これだけ離れているのに、煩くて仕方がない。天幕を震わせるのは血生臭い風だけではなく、支柱を地響きが揺らす。

 感覚を人間並みに制限して、これだ。本当に、よくぞこんな、美しくない所業を繰り広げようなどと考えられるものだ。

 どうにも私には、血に酔うという感覚が理解できない。それなのに世の中は不条理で理不尽で、私までもがこのような野蛮極まりない状況に巻き込まれ、足掻くことを強要されている。

 勿論、生きる為に獲物を狩るというのであれば、まだ私にも理解ができる。しかし、何故彼等、魔族はただ悪戯に、他の命を弄ぼうとするのであろう?

 いくら無益な殺生を厭う私たちとて、他種族のただの戯れに付き合って無抵抗に散ることはしない。とうの昔に忘れ去ったと思っていた生存本能だが、どうやらただ長らく眠っていただけのようだ。

「おーい、指揮官殿ー⁉︎ もしかして、まぁーた小難しいことでも考えてんじゃ……」

 場の空気を全く考えていない、いっそ清々しいまでの無遠慮さで大きな声を上げつつ入ってきた小柄な影は、不可解なものを見たような、なんとも形容し難い間抜けな顔で立ち止まった。

 しかし、それも一瞬のこと。次の刹那には、獰猛に牙を剥き出して笑う、彼女がいた。

「……アタイ、今のアンタとなら、酒が酌み交わせる気がするよ。指揮官殿」

 自分の眉間に、皺が寄った自覚があった。酒、とやらは、好まない。

「判断力を低下させるような薬物など要らぬ。それより、何か報告でもあるのか」

 かなり淡白に、いや寧ろ冷淡に応えたつもりだ。なのに彼女は、気分を害した様子もなく、揶揄うような態度を崩さない。

「んー、相変わらずお堅いこって。せっかく、アタイ好みのイーイ顔してたのに」

 その言葉に、心拍数が跳ね上がったような、気がした。きっと恐らく地響きか何かと、間違えたのだろうが。

 一介の傭兵に……しかも、価値観の違いが明白な、他種族に、褒められたところで。

 私が動揺するなど、ありえてたまるか。

「……それで、報告は」

 敢えて低く訊ねたのに、やはり彼女には全く応えた様子がない。ただヒラヒラと手を振る、その後ろで彼女の尾も揺れる。

「あー、はいはい。そろそろアンタの出番だ。ヤツ等が、例によって例の如く、盛大な最後っ屁をかましてお帰りなさったんでね」

 それは、待ち望んでいた報告だった。この戦場からの、魔族の撤退。

 惜しむらくは、ただでは退いてくれないことか。彼等が魔獣を大量召喚せずに帰った試しは、ほぼない。一匹一匹は強くない魔獣だったとしても、数が集まればそれなりの脅威になる。

 そして、その魔獣を片付けるのが、私の大きな仕事の一つだった。

「やっとか。おかげで、私の方は、十分に準備ができたが」

「一発ド派手なのを頼むよ、指揮官殿」

「……ふん。私を誰だと思っている」

 言葉を出した瞬間、しくじったと悟った。傲慢な言い方をしたことそのものもあるが、撰りにもよって、彼女の前で言うべき内容ではなかった。

 救いは、彼女の目が零れ落ちそうなほど大きく見開かれるという、貴重な表情を見ることができたくらいか。だがそれも直ぐに、にやけ顔に取って代わられた。

「へぇえ? ふぅん? 言うようになったじゃないか、カノン指揮官殿?」

 とろり、蕩けそうな蜂蜜色の瞳を剣呑に細めてはいるが、ゴロゴロと喉を鳴らすのは彼女が上機嫌である証拠だ。

「ここに来たばっかの頃は、こんなオボッチャマなんかにアタイ等の命なんか預けられっか、イザとなったら……なぁんて思ってたけど。ふふっ、やっぱ指揮官なら、せめてそれくらいはフテブテしくないとね」

 私は思わずこめかみを揉んでしまった。あまりに迂闊な発言だった。彼女に私の名を出させてしまった以上、覚悟を決める必要があった。

 集中力を、乱される覚悟だ。

 猫獣人に相応しく、まさしく獲物を見定めた肉食獣の瞳で、彼女が嗤う。

「今夜は一杯行こうじゃないか、カノン指揮官殿。なんなら、このカノンが、アンタの成長を祝って奢ってやっても良い」

 それは、甘美なる死刑宣告。彼女はきっと、あの判断力を鈍らせる毒薬を以ってして、私自身の口から彼女の名を引き出そうとするだろう。私と同じ、彼女の名を。

 いつもならば、断っていた。今回も、断ろうと考えていた。

 嗚呼しかし、そのときには既に、思考力などはきっと失われていたのだ。彼女を飾る傷痕が、増えている。それを、無意識のうちに数えた私は。

 結局、調子を狂わせたまま、嘆息した。

「報酬の差を考えろ。この場合、奢らねばならないのは、私だろう」

 彼女は今度こそ、瞬きを忘れたようだった。

「おい、ついに頭が沸いたか? 指揮官殿」

 何かしら懐疑的な言葉が返るだろうとは思っていたが、そうか、正気まで疑われたか。どうやら、私は随分と参っているらしい。

「そうかもな。まったく、これだから戦は好かぬ」

 最早、彼女の方を見る余裕などなかった。天幕を後にしてからやっと、私は、自分が彼女から逃げたのだと気付いた。

 敵ではないはずの彼女が、私を一番苦しめる。

 いつからだろう、私と同じ名前を持つ、異種族の少女の存在に気づいたのは。彼女が生き延びていることに、安堵を覚えるようになったのは。

 こんなことを考えている時点で、きっともう、手遅れなのだ。

 ……手遅れ?

 何故、私はそんな単語を思い浮かべた?

 そんなことよりも今は、目の前の状況を片付けねば。せっかく準備した魔法を無駄にする前に、魔獣に使ってしまわないといけない。

 私自身の個人的な考え事など、全てが終わってからでも遅くはないだろう。

 そう、全てが終わってからでも。

 魔の植物に魅入られ、地に堕とされた種族だとしても、かつては天空に在った精霊の末裔。そんな、エルフである私には、まだまだ時間があるのだから。

 チリリと、背中が疼いた気がした。彼女の視線だろうと、私はその疼きを無視した。背中の魔痕が疼いているなどとは、考えもせずに。

 主に魔法を記憶する役割を持つ魔痕。しかしエルフが生まれながらに背に負う魔痕は、滅多に使用されない。使用しない。当然、今回準備した魔法にも使っておらず、だから疼くはずがないのだと、思い込んで。

 エルフの背中の魔痕が疼く。その意味すら思い出せない程度には、私は既に憔悴していた。