カノンカノン(第三版)

彼の視点・夜


 気付けば今日の戦も、その後片付けすらも終わっており、天幕の中はすっかり暗く。随分と勿体無い時間の使い方をしたものだと、頭を抱えたくなった。

 いくら私が長命種の部類に入るとはいえ、非理論的かつ堂々巡りの考え事で何も手に着かなかったなどと故郷の知り合いたちに知られたら、どのような反応が返されるやら、想像もつかない。

 チカチカと、瞬くのは小さな明かり。星を見て頭を冷やそうか、それとももう夢魔に身を任せようかと、立ち上がりかけたところで灯りが増える。

 ゆらりゆらりと、揺らめき来る燈の持ち主の、闇夜に光る瞳の美しさよ。

 極上の宝石に、知らず、喉が上下した。

 彼女は足音を立てない。そう、夜は、彼女の時間だ。

 そっと、詰めていた息を吐き出す。嘆息に見せかけ、そのまま肩を竦めてみせた。

「そういえば、奢らねばならなかったな」

 嗚呼、願わくば。暴れる私の心音が、悟られぬように。これ以上、声が震えぬように。

 けれど彼女は無情にも、不機嫌さを隠そうともせず、言い放った。

「はんっ、そのつもりで来たけど、興醒めだ。今の腑抜けたツラしてるアンタになんか、タカるもんかい」

「腑抜けた……か」

 確かに、その通りだろう。私とて、今の私の状態がオカシイことまでは、判っているのだ。ただどうしても、理由を考えれば考えるほどに、自分が解らなくなっていくだけで。

 ここ最近、このような傾向にはあったが、今日は特に酷い。途中までは、寧ろ思考が冴えていたように思うのに。

 どこかで、小さな綻びが生じた。そして、いつの間にかそれが、繕いきれぬ大きさになっていた。

 原因は判っている。なのに、理由は解らない。

 いっそのこと、その原因を取り除けば、私は元に戻れるのだろうか。このまま彼女を配置換えで他の同僚に任せ、もう二度と逢わなければ?

 もう一度、喉が上下した。

 口が渇く。

 足先から、指先から、温度が抜けて。

 目の前から、色が。

「カノン」

 それは、どちらの名前だ。

「カノン?」

 名前を口にしたのは、どちらだ。

 思考を失っていたのは、刹那か永劫か。粘りつくような闇に溺れ、消えそうな希望に手を伸ばそうとして、思い留まった。

 こんな幽かな希望では、私が触れた瞬間にも、壊れてしまう。

 現実に戻れぬまま、首を振った。

「そうか、ならば行くが良い。……私には、過ぎた相手だった」

 いつか失うことを恐れ、せめて自分から手放したと信じたかった。

 そう、喪いたくなかった。本当は、手放したくもなかった。

 解っている、手放したところで元に戻れるはずもない。ただ緩慢に死に向かうだけだ。持て余すこの感情に、耐えかねて。

 彼女は、きっと。

「私の羽」

 滾れ落ちてしまった囁きが、何を意味するのかまでは、知らないだろう。

 かつて天空に在ったエルフの一族が持っていたという、羽に喩えられる意味。

 ……そして、羽を諦めた者の辿る末路も。

 先程からこの身を蝕む感覚は、気のせいではないだろう。私に宿る魔の植物が、私を完全に喰らい尽くそうとしている。

 魂を喪い、完全に堕ちてこの身を明け渡す前に、次の戦が来れば良いが……。

「ああぁ、もう、バッカじゃねーの⁉︎」

 去ったと思っていた、声が聞こえた。

 温もりを捨てかけているこの身に熱を分け与えようとでもいうのか、深い眠りの淵に沈みかけているこの魂を引きずり上げようとでもいうのか、抱き締められていた。

 灰色に霞んだ視界に映る彼女の表情は、泣きそうに歪んでいた。

「勝手に告白して、返事も聞かずに勝手に絶望とか、ざっけんじゃない!」

 彼女が喚いている言葉をなんとか聞き取りたい、これが最期になるだろうから。

 けれど、羽を諦めた私には、音の羅列から意味を拾うのも一苦労だ。

「馬鹿バカっ、逝くなよカノン、戻ってこいったら……‼︎」

 不意に、呼吸を止めていた唇に、柔らかい何かを感じた。

 崩れ去りかけていた心の足りなくなった欠片が、吹き込まれた気がした。

 私に生命の息吹を飲み込ませたのは、私の羽。

 愛しい相手。

 運命の半身。

「消え去るくらいならアタイのモノになれ、カノン」

 勿論私に、拒む理由はなかった。

「ああ、カノン。私の羽。この命朽ちるまで、そなたに捧げよう」

 我ながらよくぞこんな甘ったるい声が出せるものだと、僅かばかり生き残った理性がぼやいた気配がした。

 が、そんなことは、どうでも良いだろう。私の羽が私を求めた。それが一番重要だ。

 疼いていた背中の魔痕が、燃えてしまいそうに熱い。だが、燃やされてはやらない。私をどうこうして良いのは、私の羽だけだ。

 彼女は、全身の毛を逆立たせた。

「そ、その笑顔は反則だろ、カノン……!」

「知らぬ」

「見ろよ、アタイの尻尾まで……」

 彼女はそこで、自身に違和感を覚えたようだった。

「アタイの尻尾が増えてるー⁉︎」

「当然だ」

「何が⁉︎」

「私の命を捧げると言ったぞ。それくらいの変化を起こしてもらわないと、寿命の差を埋められないではないか」

 一尾の猫獣人よりも二尾の猫又の方が、寿命は長いのだ。

 完全に絶句した彼女の顔に血流が集まっているのが、今の私には分かる。

「……流石、神秘の種族。アンタ等って結局、強いんだが儚いんだが、もうアタイ深く考えない方が良い気がしてきた」

「それが賢明だな」

 自覚をすれば、そして受け入れられれば、もうこの気持ちだけでここまで振り回され、自滅に走ることも減るだろう。

 あくまでも、減るだけだろうが。

 開き直りやがった、と呟く彼女を抱き返し、その温かさに酔いしれる。背中だけは、熱い。けれども私の手も足も、まだ氷のようだった。

 一人でもそのうち戻りはするだろうが、それでも腕の中の温もりに、もう暫く縋っていたかった。

 身体中でこの身を蝕むべく騒めいていた魔痕が、背中のそれを除いて徐々に静まっていく。普段は魔法を記憶する役割を担ってくれる魔痕だが、その正体はエルフを地上に縛り付ける魔の植物だ。深く取り込まれて早幾星霜、滅多なことがなければ共生関係は概ね穏やかで、その数少ない例外が羽に出逢ったときの疼きや、羽を諦めたときの暴走など、ひたすら羽に関することになる。

 背中の魔痕だけが、羽を取り込みたいと熱く蠢く。けれどこの羽は、私のものだ。

 渡せるわけがないと、私は彼女を改めて胸の中に抱き込んだ。そう、私の背中から、隠すように。